森の「ハンド」を巡って、フロンタサポさん達から判定に対する批判意見が出てるので、私なりに考えをまとめてみました。
フロンタサポさん達の言い分は
① ボールを「意図的」に扱った場合がハンドであり、手に当たれば全部ハンドになるわけではない
② 「意図的」かどうかは内心のことであってプレーヤー本人にしか分からない
③ あの状況で、「意図的」にハンドを犯そうとするプレーヤーなどいる筈がない
④ したがって、森のプレーは「意図的」とは言えず「ハンド」ではない
という感じだと思います。
まず①ですが、これはルールそのものなので当然です。
次に②ですが、これもそのとおりです。審判にも、敵にも、味方にも、サポーターにも、本人以外誰にも分かりません。
次に③ですが、これは一般論としても成り立たない議論だと思います。例えば、ゴール手前でわざと倒れてシミュレーションを取られるプレーが散見されますが、これだって、せっかくゴール前までボールを運んできているんだから、わざと倒れるはずはないなどと言えますか。
反則的行為は審判に見つかって初めて「反則」というレッテルを貼られるのであって、見つからなければ反則にはならないのです(だからといって推奨するつもりは毛頭ありませんが)。反則的行為は、見つかれば「反則」として不利益を受けますが、反面、見つからなければ自分のチームに有利に働くのです。そして見つからないかもしれないのです。ここにプレーヤーを反則的行為に走らせる魅力というか魔力があるのです。
こういう魔力に魅入られたとき、『あの状況で、「意図的」にハンドを犯そうとするプレーヤー』が現れても不思議ではありません(森が意図的だったと決め付けるつもりはありませんが)。
したがって、④も当然には成り立たない結論ということになります。
サッカーはフィールドプレーヤーが手を使えないという他の球技にはない際立った個性を持っており、これと「ハンド」の反則とは切っても切り離せない関係にあります。極端な話、②の「意図的」を厳格に解釈すれば「ハンド」の反則は取れなくなってしまい(見た目がどんなに「意図的なハンド」であっても、本人が否定すれば「意図的」だと証明できないので)、結局、フィールドプレーヤーが自由に手を使えることになってしまいます。これはもうサッカーではありません。
「意図的」を厳格に解釈するとサッカーというスポーツは成立しないということになりかねないのです。
これを避けてサッカーというスポーツを成立させるためには、『「意図的」かどうか』ではなく、『「意図的」と見えるかどうか』で「ハンド」を判定せざるを得ないことになると思います。つまり、プレーヤーの真の内心は原則として問題にしない(できない)ということです。審判から見て意図的と見えるハンドがあった時には、そのプレーヤーの内心には「意図」が潜んでいたであろうと推定し、「ハンド」と判定するということです。審判というプレーヤー本人でない人が判定を下すのですから、こうせざるを得ないのです。
そこで、森の「ハンド」が『「意図的」と見えるかどうか』ですが、手を上げた行為自体は、何かのはずみであがってしまったのではなく意識してあげたように見えること、浮き球が接近しつつある状況の中で手をあげれば手にボールが触れるおそれがあることは十分予測できるはずであることから、『「意図的」と見えるハンド』と見られても文句の言えないプレーだと思います。したがって、ハンドの判定は妥当だと思います。
最後に、森の件に限らず、審判の判定全般に不満を言う意見もありますが、率直に言って大人気ないなあと思います。選手と一緒になって監督まで審判批判している姿は決してカッコよくありません。関塚監督の「巻のプレーは全部反則」発言は、自分の思い通りにならないことで腹を立て癇癪を起している駄々っ子そのものです。もう少し指導者らしくなって下さい。
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