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2006年9月28日 (木)

代表バブルの崩壊

代表のチケットが売れないそうですね。A代表ガーナ戦、U-21中国戦、どちらも苦戦中のようです。協会の財政は「打ち出の小槌」の威力がなくなって大変でしょうが、ジーコ時代に膨らみきった代表バブルが、W杯敗退を機に一気に崩壊したということでしょう。あれだけ期待を持たせておいて0勝ですから、バブルに踊ったにわかサポが代表から離れていっても当然ではないでしょうか。

これからは、清貧に甘んじても名前に囚われない内容のある代表を構築してもらいたいと思います。日頃Jを応援している各チームサポーターは、すべてのチームから新たな代表戦士を探している今のやり方を基本的には支持しているはずです。
これからも山あり谷ありの代表ですし、今はおとなしい川渕もいつ態度を豹変させるかわかりませんが、Jを土台にして代表を作る、名前には囚われない、という方針は堅持してください。なんたって、「日本」の代表なんですから。

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2006年9月22日 (金)

森のハンドは意図的か?

森の「ハンド」を巡って、フロンタサポさん達から判定に対する批判意見が出てるので、私なりに考えをまとめてみました。

フロンタサポさん達の言い分は

      ボールを「意図的」に扱った場合がハンドであり、手に当たれば全部ハンドになるわけではない

      「意図的」かどうかは内心のことであってプレーヤー本人にしか分からない

      あの状況で、「意図的」にハンドを犯そうとするプレーヤーなどいる筈がない

      したがって、森のプレーは「意図的」とは言えず「ハンド」ではない

という感じだと思います。

まず①ですが、これはルールそのものなので当然です。

次に②ですが、これもそのとおりです。審判にも、敵にも、味方にも、サポーターにも、本人以外誰にも分かりません。

次に③ですが、これは一般論としても成り立たない議論だと思います。例えば、ゴール手前でわざと倒れてシミュレーションを取られるプレーが散見されますが、これだって、せっかくゴール前までボールを運んできているんだから、わざと倒れるはずはないなどと言えますか。

反則的行為は審判に見つかって初めて「反則」というレッテルを貼られるのであって、見つからなければ反則にはならないのです(だからといって推奨するつもりは毛頭ありませんが)。反則的行為は、見つかれば「反則」として不利益を受けますが、反面、見つからなければ自分のチームに有利に働くのです。そして見つからないかもしれないのです。ここにプレーヤーを反則的行為に走らせる魅力というか魔力があるのです。

こういう魔力に魅入られたとき、『あの状況で、「意図的」にハンドを犯そうとするプレーヤー』が現れても不思議ではありません(森が意図的だったと決め付けるつもりはありませんが)。

したがって、④も当然には成り立たない結論ということになります。

サッカーはフィールドプレーヤーが手を使えないという他の球技にはない際立った個性を持っており、これと「ハンド」の反則とは切っても切り離せない関係にあります。極端な話、②の「意図的」を厳格に解釈すれば「ハンド」の反則は取れなくなってしまい(見た目がどんなに「意図的なハンド」であっても、本人が否定すれば「意図的」だと証明できないので)、結局、フィールドプレーヤーが自由に手を使えることになってしまいます。これはもうサッカーではありません。

「意図的」を厳格に解釈するとサッカーというスポーツは成立しないということになりかねないのです。

これを避けてサッカーというスポーツを成立させるためには、『「意図的」かどうか』ではなく、『「意図的」と見えるかどうか』で「ハンド」を判定せざるを得ないことになると思います。つまり、プレーヤーの真の内心は原則として問題にしない(できない)ということです。審判から見て意図的と見えるハンドがあった時には、そのプレーヤーの内心には「意図」が潜んでいたであろうと推定し、「ハンド」と判定するということです。審判というプレーヤー本人でない人が判定を下すのですから、こうせざるを得ないのです。

そこで、森の「ハンド」が『「意図的」と見えるかどうか』ですが、手を上げた行為自体は、何かのはずみであがってしまったのではなく意識してあげたように見えること、浮き球が接近しつつある状況の中で手をあげれば手にボールが触れるおそれがあることは十分予測できるはずであることから、『「意図的」と見えるハンド』と見られても文句の言えないプレーだと思います。したがって、ハンドの判定は妥当だと思います。

最後に、森の件に限らず、審判の判定全般に不満を言う意見もありますが、率直に言って大人気ないなあと思います。選手と一緒になって監督まで審判批判している姿は決してカッコよくありません。関塚監督の「巻のプレーは全部反則」発言は、自分の思い通りにならないことで腹を立て癇癪を起している駄々っ子そのものです。もう少し指導者らしくなって下さい。

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2006年9月21日 (木)

長いトンネルは国立に通じていた

待ちに待ったホーム初勝利がナビスコ決勝進出と二人連れで来ました。
PKの場面は、フロンタ側にはとやかく言う人もいるようですが、SA席1階から見ていた私にはハンドの判定で当然というふうに見えました(ひいき目抜きにして)。スポルトでもやってましたが、やっぱりハンドでしょう。

試合のほうは前半2点先取したのですから、本当なら延長に入らずに決めなければいけないのでしょうが、正直なところ、前半が終わってもぜんぜん安堵感はなかったです。そして、嫌な予感というものは、えてして的中しちゃうんですよね。フロンタの外人部隊はなかなかの脅威であり、JEFのチーム状態からして、3点目を献上しなかったことを良しとしておきましょう。結果オーライということで。

アマル監督も今日は立ちっぱなしでした。いつも座っていて表情を変えない監督ですが、まだ若いあなたには、じーっとベンチの隅に座っている姿は似合いませんよ。

さて、11月3日は当然行くとして、どっから見ようかなあ。有り金はたいてメインの一番いい席?それともゴール裏?皆さんどうします?

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2006年9月17日 (日)

でも 「つぎがある」

ゴール前に相手選手がフリーになっている、そこへボールが飛んでくる、ネットが揺れる。まるでシュート練習のような光景が実戦に何度となく出てくる。それが今のJEFではないですか。こんな場面が繰り返されるのであれば、何点とって勝てやしません。

オシム父は危険なチームを作ると言ってリスクチャレンジの精神をJEFに植えつけてくれました。チャンスとみればポジションを問わず誰でもが相手ゴールを目指す。しかし、それは、空いたスペースをカバーする、マークを受け渡すという他の選手との緊密な連携が基礎にあってのことでした。今のJEFは相変わらず攻撃的で点も取れていますが、さて、守備はどうなってしまったんでしょうか。攻撃に出て行った選手のポジションを誰がカバーしているのでしょうか。まさか、キーパーにオールマイティを期待しているわけじゃないでしょう。

アマルはオシム父よりも攻撃的だそうですが、守備の現状をどう見ているのでしょう。攻撃に偏するあまり攻守のバランスを欠いているということはないでしょうか。

異常な監督交代劇の動揺、A3による真夏の連戦、代表召集による主力の欠場、疲弊。ここ3年間のJEFの躍進は昨年のタイトルに結実しましたが、今年は副作用が襲ってきてしまいしました。この3年がなければ監督も代わらなかったでしょうし、A3もなかったし、主力の代表召集も阿部どまりだったでしょう。これらの副作用がよりによって同時にJEFを襲ってきました。せめて、時をずらして来てくれればなあ。

まあ、過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。こんな異常事態はそうそうあるもんじゃない、そう思って捲土重来を期しましょう。

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2006年9月13日 (水)

1ヶ月で何が変わるのか?

遂に家本SRに出場停止の処分が科されました。喝采を叫ぶブログが多いですね。

ところで、今回の処分はどういういきさつで決まったんでしょうか。判断基準にぶれがあるというのが表向きの理由のようですが、額面どおり受け取っていいんでしょうか。

確かに家本SRは審判の中でも目立ってました。各チームやサポから集中砲火を浴びていた感がありました。そういう意味で信頼を失いかけたSRが一時休業することはやむを得ないと思います。

ところで、家本SRはこの件についてどう思っているのでしょう。その言い分を是非聞きたいところです。家本SR自身は審判として誠実にジャッジし続けてきたはずです。それが、各チームやサポの感覚と一致していなかったとしても、彼自身は信念を持ってジャッジしたのですから、これを変えるとなると、1ヶ月休んだからどうなるというものでもないように思います。

不誠実にいいかげんにジャッジしてきたなら審判として不適格であるし、誠実にジャッジしてきた結果が今日の処分になったのであれば、これまた審判としての適性に疑問を抱かざるを得ません。
そうなると、1ヶ月の出場停止という措置の意図するところは何なんでしょう。外野が頭を冷やすよう1ヶ月くらい休ませるか、というような安易な考えが協会になければいいんですが。

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2006年9月11日 (月)

出口は近いに違いない!

おとといの試合は清水に脱帽です。癪ですが、羨ましいくらいの試合運びでした。1-3は妥当な結果かもしれません。

アウェイではそこそこの結果を残しているのにホームでは勝てない、というのは単なる偶然なんでしょうか。不思議で仕方ありません。

しかし、まぁ、出口のないトンネルはありません。アマルJEFホーム初勝利も近い、今はただ出口の目前にきていることを信じて応援するのみです。

ゴール裏のサポが、試合が終了して選手が場内を一周して挨拶し最後の選手が退場するまでの間、ずーっと千葉コールを絶やさずにいたことは素晴らしかった。とても気持ちのこもったコールだったと思います。

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2006年9月 8日 (金)

サポの思い上がり

なんか、サポーターが分裂応援どうのこうのっていがみあってるんですって。平和だなあ、ホント。

誰がどう応援しようと勝手じゃないですか。サポーターだなんだと言ったって、所詮は一般客と同じ入場料しか払ってない一観客でしょう。なにか特別な特権階級なんですかね、アホらしい。

グリなんとかとハレなんとかの主導権争いなんて、バカバカしいからさっさとやめたらどうですか。どうせお互いたいした人数でもないんでしょう。いがみあっていたって、周りから嘲笑されるのがおちですよ。相手はどうあれ、自分が信じる応援を続けていけば、着いて来る人は着いて来るでしょう。それでいいんじゃないですか。

追伸

こういうのを世間では「コップの中の嵐」というんでしょうね。

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2006年9月 7日 (木)

JEFvsフロンタの忌まわしい記憶

JEFとフロンタのナビスコは終盤に荒れてしまいましたね。ジャッジをめぐるトラブルは、残念ですがサッカーには付き物でしょう。どっちの言い分が正しいのか分かりませんが、誤審のないサッカーなんて世界中を見渡してもそうそうあるものじゃありません。

私の趣味とする将棋の世界には「運も実力のうち」という言葉があります。審判が思わぬ有利な判定をしてくれたら、そういう幸運を呼び込む実力があったということだし、逆に不利な判定を下されたとしたなら、そういう不運を撥ね返すだけの実力がなかったということです。

さて、私が遅ればせながらナビスコを取り上げるのは試合後のフロンタサポの行いやこれに対する双方チームの対応がまったく納得できないからです。

報道によれば、フロンタサポが、試合後、ストヤンに水を浴びせたかけたということですが、JEFからはなんのアナウンスもないようです。フロンタからは遺憾の意を表するコメントがホームページに出ていますが、はっきり言って紋切り型の通り一遍の謝罪文であり、この種の問題を本気で解決しようという意思があるのかどうかはなはだ疑問です。

まず、フロンタサポの行為ですが、これははっきり犯罪です。刑法で言えば、他人に水を浴びせかける行為は暴行罪に該当します。したがって、これをやったサポは立派な犯罪者です。直接水を掛ける行為はしなくても、周囲にいて助長したサポももちろん同罪です。審判のジャッジに文句があるなら審判に抗議しなさい。相手選手に暴力を振るうのはお門違いも甚だしい愚行です。

JEFのフロントはなにをしてるんですか。ノーコメントという対応はおかしいと思いませんか。抗議もできない弱腰では選手がかわいそうです。選手に我慢させて、臭い物に蓋してしまうつもりですか。

フロンタにも納得できません。『ご来場の皆様一人一人が川崎フロンターレサポーターの代表であります』ならば、水を掛けた暴行犯もフロンタの代表なんですね。フロンタの代表として入場してきたサポが相手チームの選手に暴行を働いたということになりますね。そういう状況に対してフロンタは『情報の収集と事態の収拾を進めております』そうですが、この先どうするんですか。だれかストヤンに謝罪しましたか。フロンタを代表するサポが仕出かした暴力事件という認識があるなら、まずもって被害者たるストヤンにチームとして謝罪すべきではないのでしょうか。

イエメン戦で我那覇の決勝ゴールを見たあとにこんなことを書くのは、我ながら悲しい限りです。

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2006年9月 3日 (日)

サッカーにおけるルールとモラル

私はJEFサポで、日曜日はレディースが4-1で快勝した試合を観戦し、ナビスコの川崎戦もテレビ観戦しましたので、ブログの話題は当然これにするべきところでしょうが、今回はどうしても書きたいテーマに遭遇してしまいましたので、JEFからは離れて、と言ってもJEFも無縁ではない話を書きます。

ことに起こりはもう一方のナビスコ準決勝戦、鹿島-横浜戦です。既に御承知のように、横浜の吉田が後頭部から流血したにもかかわらず試合が中断されず、これで横浜が集中を切らしたその隙に鹿島が決勝点となる1点を取ってしまいました(私はこの試合を見ていないのですが、メディアの情報をまとめればこんなところだろうと思います)。
横浜とすれば、選手が頭部に負傷しているのに試合を止めない審判はもちろんのこと、任意にボールをピッチ外に蹴り出さなかった鹿島に対しても怒り心頭でしょう。これに対する鹿島の反論は審判が試合を止めないのに選手が止めるのはおかしい、文句は審判に言え、ということのようです。

こういう意識のズレはどこから生じたのでしょうか。

もともと、選手が怪我をしたからといってルール上は試合が止まることはなかったのですが、選手生命にかかわる場合もあるし、明日は吾身ということもあるので、いつしか、敵味方という立場の違いを乗り越えて、選手が怪我をしたときには選手の判断でプレーを切ろうという暗黙の了解が選手間に浸透しました。プレー再開の時には相手方にプレゼントボールをすることで、プレーを止めてくれたことに謝意を表し、サポーターも敵味方関係なく拍手をもってそのプレーを讃えました。これはルールとして定められたのではなくサッカーに携わる人たちのモラルとして成立した行いでした。ルールではないから、プレーを切らなかったとしても反則をとられたりはしないことは当然です。ですが、このモラルは誰が強制したわけでもないのに消えることなく延々と生き続け今日に至りました。

思うに、このモラルがモラルのままであり続けたならば、今回のケース、おそらく鹿島の選手はプレーを切ったのではないでしょうか。ですが、このモラルは数年前から単なるモラルではなくなってしまいました。現在は、プレー中、選手が負傷した場合は、状況に応じて審判が試合を止めることになりました。しかし、この取扱いの反面として、審判が止めないのになぜ選手が勝手に判断してプレーを切ってしまうのかという反論が頭をもたげてきます。今までは、選手が自主的に判断してプレーを止めたことが讃えられたのに、今では逆に、選手が自分の判断でプレーを切ることが疑問視されるのです。鹿島のアウトゥオリ監督に言わせれば「幼稚なフェアプレイ」ということになるのでしょう。選手がプレーを切りたくても切れない、早く笛を吹けと審判を呪いながらもプレーは続けざるを得ない、そういう修羅場が今後もピッチ上に展開されるのでしょう。

敵味方を問わず怪我人の救護を第一と考えた選手の思いが公に認められ審判の判断事項にされたことが、かえって選手からモラルを奪うことになってしまったのでしょうか。
たとえ幼稚と言われようが、

  ルール<フェアプレイ

であって欲しい。

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